ベトナムでは、共産党の指導による社会主義体制のもと、政権はおおむね安定しており、国内に反政府勢力・テロ組織の活動は報告されておらず、暴動・テロの危険は他国に比べて少ないものと思われる。しかし、中部高原では2000年春に少数民族の反政府デモが行われ、政府関係機関による鎮圧で、1000人を超える人々が国境を越えてカンボジアに流入するなどして国際問題となっている。また、中国・カンボジア国境付近は、人身売買、麻薬密輸など、犯罪組織の活動が活発であり、注意が必要である。 2002年5月19日には第11期国会議員選挙が行われ、議席数の増加(450→498)が行われるとともに、マイン書記長、ルオン国家主席、カイ首相を含む首脳陣はいずれも当選。続いて7月に第11期第1回国会が開催され、ルオン国家主席、カイ首相は再任された(任期5年)。
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政体 |
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社会主義共和制(党書記長:ノン・ドゥック・マイン(62才)) |
元首 |
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チャン・ドゥック・ルオン国家主席(65才)(97年9月就任、任期5年) |
国会 |
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一院制、議席数498、任期5年(国会議長:グエン・ヴァン・アン(65才)) |
政府 |
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(1)首相:ファン・ヴァン・カイ(69才)、(2)外相:グエン・ジー・ニエン(67才) |
具体的には、政治はベトナム共産党による事実上の一党独裁政治が行なわれており、しばしば政治の民主化を望む人々が逮捕されることがある。書記長、国家主席、首相の3人を中心とした集団指導体制であり、現在の共産党中央委員会書記長はノン・ドゥック・マイン(農徳孟)、国家元首はチャン・ドゥック・ルオン(陳徳良)国家主席であり、首相はファン・ヴァン・カイ(潘文凱)。
建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行っており、国父ホー・チ・ミン(胡志明)も独裁的な権力を有したことはなく、対米戦争中の一時期には失脚に近い状態にあったとも言われている。
政府の運営は、極めて官僚的であり、中国に類似している。
国外には旧ベトナム共和国政府関係者を中心とした反共産党政府組織が幾つか存在しており、特にアメリカを根拠地とする「自由ベトナム政府」は、2000年前後にベトナム国内外でテロ活動を実施(或いは実施未遂)している。しかし、これらの反政府組織は今なおベトナム共和国時代の対立を解消できておらず、1960年代に南ベトナムからの独立を企てた少数民族組織フルロ(FULRO)関係者はこれらの組織とは対立関係にあり、各組織の力を一つに集めることができるリーダーシップを有した指導者が存在しない。また、1975年のベトナム共和国消滅から30年以上経ち、世代ごとの反共主義に対する考え方の違いが鮮明になりつつあることから、最近では必ずしも亡命ベトナム人の間で反政府組織が支持されるとは限らなくなっている。
86年より導入されたドイモイ(刷新)政策は、その後の最高指導部の数次に亘る交代を経つつも継続されてきているが、他方、ドイモイの進展の裏で、貧富の差の拡大、汚職の蔓延、官僚主義の弊害や散発する暴動などのマイナス面も顕在化している。こうした中、2001年4月19日から22日まで、第9回共産党大会(5年に1度開催)が開催され、共産党一党支配による社会主義体制の維持と「ドイモイ(刷新)」路線継続というこれまでの基本方針の継承が打ち出されるとともに、党員の腐敗撲滅に向けての各種対策が示された。また、同大会においてフィエウ書記長が退任し、ノン・ドゥック・マイン国会議長が新書記長に選出された。2002年5月19日には第11期国会議員選挙が行われ、議席数の増加(450→498)が行われるとともに、マイン書記長、ルオン国家主席、カイ首相を含む首脳陣はいずれも当選。続いて7月に第11期第1回国会が開催され、ルオン国家主席、カイ首相は再任された(任期5年)。
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■軍事情勢
ベトナム人民軍は1944年12月22日に建軍された。徴兵制を採用しており、18-27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用する。国家国防安全委員会主席は国家主席が兼任し、首相が副主席である。中越戦争時には正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、48万4000人まで削減された。陸軍41万2000人、海軍4万2000人、防空・空軍3万人である。このほか、予備役と民兵が300-400万人。予備役将校のの職業はさまざまで、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドルである。 |
日本との関係
93年3月のキエット首相訪日以後、関係緊密化が順調に進み、首脳間の往来も頻繁に行われている。99年6月には秋篠宮同妃両殿下が日本の皇族として初めて御訪越された。最近では、2002年1月に綿貫衆議院議長、4月には小泉総理がそれぞれ越を公式訪問し、5月にはキエム副首相、アン国会議長が訪日。10月にはマイン越共産党書記長が、党書記長としては7年ぶりに公賓として訪日。2003年4月にはカイ首相が、主に日越経済関係の促進を目的として訪日した。
歴史的には
■西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。753年には遣唐使藤原清河や阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、中国領安南のヴィン付近に漂着した。東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したようだ。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した。
■14世紀から15世紀にかけて交易国家として栄えた琉球王国はチャンパ王国とも通好があった。17世紀になると朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府は北ベトナムの黎朝や南ベトナムの阮氏広南政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。ホイアン(会安)には日本人町も形成されている。朱印船はまた衰亡していたチャンパ(占城)でも中国船と出会い貿易を行っている。
■ベトナムの通貨の名称はドンだが、これは江戸時代に流入した日本の銅銭の銅の発音が語源であるとも言われている。日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済に使われていた。
■1940年に日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年には南部にも進駐した。フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであった。日本軍は戦争中、インドシナ植民地政府と共存していたが、1945年3月にはクーデターによってフランスの植民地政府・軍を取り潰し、ベトナムを名目的に独立(ベトナム帝国)させたが、間もなく敗戦となった。しかし、その結果生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用した。また、戦前・戦中の日本軍の軍規の良さはベトナム国民に好印象を与えた一方で、治安を乱したものに対しては斬首などの厳罰で臨んだ厳しい態度は、ファシストとして今でも語り継がれている。
■なお、1945年にはベトナム北部で大量の餓死者が発生した。日本の一部のグループはその原因を日本軍による大量の食糧徴発とし、推計200万人に近いベトナム人の餓死者を出したと主張しているが、餓死者数については正確な人口統計がないため明確には把握できていない。また食糧不足の原因についても、元来北部紅河デルタ地帯は過剰人口による食糧飢餓地域であり常に南部メコンデルタ地帯から輸送される米により人口が維持されてきたものが、連合国による爆撃により海上ならびに鉄道による食糧輸送が壊滅状態に陥ったためとも言われている。この件につき、日本に対しベトナム政府は外交問題として取り上げたことはない。
■戦後、フランスが再び進駐してくると、それに対するベトナム国民の抵抗戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、この戦争には日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵がとどまっており、1954年のジュネーブ協定成立までに47人が戦病死した。なかには、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。なお、ジュネーブ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。
■1951年に日本政府はベトナム国(南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)がベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、1973年に外交関係を樹立を樹立するまで日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。
■2005年の中国反日デモで、日本企業は中国一辺倒の進出に警戒を払うようになり、親日・知日家と知られるカイ首相を初め国民が親日的で、賃金が中国の半分から3分の1といわれるベトナムへの進出が相次いでいる。日本経団連や政府も積極的に経済援助を行っており、両国の関係は「緩やかな同盟関係」と評されている。一部報道では、中国の積極的な外交活動による日本の出遅れを指摘し、次期首相と目されるといわれるズン第一副首相が親中派であるとされたが、伝統的な集団指導体制が堅持される以上ベトナム政府の外交方針が極端に変わることは考えられない。 |
外交
@基本方針は全方位外交、対外開放、地域・国際社会への統合の推進。
A995年7月、ASEANに正式加盟、98年12月には第6回ASEAN公式首脳会議を主催した。2001年7月には、ASEAN議長国として一連の外相会合をハノイにおいて主催した。
B米国とは95年7月に外交関係を樹立。97年5月に大使交換。2000年11月にはクリントン米大統領が、南北ベトナム統一(1976年7月)後、米大統領として初めて訪越した。96年より交渉が続けられていた米越通商協定は2000年7月に署名され、2001年12月に批准書交換を了し発効した。
C中国とは、79年には戦火を交えたが、91年11月に関係正常化。最近では、99年12月に朱鎔基首相が訪越し、2001年11月にはマイン書記長が訪中、2002年3月には江沢民国家主席が二度目の訪越を果たす等、良好な関係の維持が図られている。99年末には中越陸上国境協定が締結された。さらに2000年末には、トンキン湾海上国境画定に関する協定に調印したことにより、両国の長年にわたる国境画定交渉が決着した。但し、南沙問題は依然未解決。
危険情報
現在、危険情報は出ておりませんが、最新スポット情報や安全対策基礎データ等を参照の上、安全対策に心がけてください。 |